jarinosuke blog

'物語 ウクライナの歴史―ヨーロッパ最後の大国' を読んだ

読んだ動機

ロシアによるウクライナへの侵攻が2月末頃からはじまった。

すぐその後にCOTEN RADIO【緊急収録】ウクライナとロシア 1/6 ~ウクライナとロシアの歴史~が公開された。

それを聴いて全体像を浅く把握できたかなと思うと同時に、これを全て鵜呑みにしてしまってもそれはそれでバイアスだなという課題感を持った(この見方自体も Podcast 内で警告があった)。

なので、COTEN RADIO が提供している引用書籍で紹介されているかつ、読みやすそうなものを手に取ってみた

今回読んだ物語 ウクライナの歴史―ヨーロッパ最後の大国もそうだけど、COTEN RADIO を支える COTEN CREW 然り、資料を読んで発信してくれる方々全て感謝したいし尊い取り組みだなぁと改めて感じた。

こういう方々の活動全てが、今後の歴史を積み上げて作っていくんだなと思った。

(なるべく書籍に書かれてある事実と自身の意見は分けて書こうと努力はしてますが、間違いなどある場合はご容赦ください)。

引用とノート

ウクライナ史の権威オレスト・スブテルニーは、ウクライナ史の最大のテーマは、「国がなかったこと」だとしている。すなわち、多くの国において歴史の最大のテーマがネーション・ステート(民族国家)の獲得とその発展であるのに比し、ウクライナでは国家の枠組なしで民族がいかに生き残ったかが歴史のメーン・テーマであった (p. 5)

序文からとても印象的で、ウクライナに関連する人々は国家という枠組み無しでどうやって生きてきたかの歴史になるというのが驚きだった。

1. スキタイ文明と日本神話

王権を正統化する黄金の鋤、軛、戦斧、盃が天から降ってきたとの話に関して、神話学者の大林太良氏、吉田敦彦氏らが、スキタイ神話が朝鮮半島を経由して日本まで伝播した可能性を指摘し、スキタイの器物が日本の皇統を正統化する三種の神器に対応するのではないかと推測しているのは興味深い。 (p. 19)

元々黒海北岸に住んでいたのはキンメリア人らしいが詳細が分かっていない。

その人々を追い出して土着したのがスキタイ人、彼らの建国伝説の中で金属製の器が4つあるがそれが日本神話の3種の神器とリンクしている、なんなら輸入されている可能性もあるのでは?という推察。

そんなことあったら素敵な推論だなと思った。

我々が気づくのは、このユーラシア大平原ではその後二〇〇〇年以上たってもほぼ同じことが繰り返されている点である (p. 26)

騎馬術が高く戦闘能力の高かったスキタイ人のペルシャ帝国の遠征からの防衛の話。

そこから1800年代のナポレオン遠征、1900年代のナチス・ドイツのソ連への侵攻、そして直近のロシア侵攻と何度も侵攻に晒されている。

中国で王権の象徴になるのは黄金ではなく「玉」であるのに、朝鮮半島の金冠塚(韓国慶州市)、我が国の藤ノ木古墳(奈良県斑鳩町)から見事な黄金(または金色)の冠が発見されたことについて、これは黄金崇拝の観念が「玉の国」である中国本土を通らずに、北方草原から回して伝播した可能性があると指摘している。 (p. 31)

こちらもスキタイ文明と日本のリンクの推察。

こんな繋がりがあったとしたらワクワクする。

2. キエフ・ルーシは誰のもの

ロシア側の言い分はこうである。キエフ公国の滅亡後、ウクライナの地はリトアニアやポーランドの領土となり、国そのものが消滅してしまって、継承しようにも継承者がいなくなってしまった。これに対し、キエフ・ルーシ公国を構成していたモスクワ公国は断絶することなく存続して、キエフ・ルーシ公国の制度と文化を継承し、その後のロシア帝国に発展していった。これからみてもロシアがキエフ・ルーシ公国の正統な継承者であることにはいまさら議論の余地はない。 (p. 40)

ウクライナのナショナリストの言い分はこうである。モスクワを含む当時のキエフ・ルーシ公国の東北地方は民族・言語も違い、ようやく一六世紀になってフィン語に代わってスラヴ語が使われるようになったほどであった。一五世紀のモスクワは、キエフ・ルーシ公国の支配下にあった非スラヴ諸部族の連合体であり、キエフ・ルーシ公国の後継者とはとても言いがたい。また過酷な専制中央集権のロシア・ソ連のシステムはキエフ・ルーシ公国のシステムとはまったく異なり、別系統の国である (p. 40)

今までキエフ・ルーシ公国はロシア(ソ連)史の文脈で出てくることが多かったのは、ウクライナは独立さえしていなかったから。

しかし独立したことでウクライナも一つの独立国、として考えるとこのキエフ・ルーシ公国は誰のものか、という議論になってきた。

この辺りは現状なかなかセンシティブな話題になりうるので、改めて事実とそれぞれの認識をノートとして書いておく。

  • キエフ・ルーシ公国を作ったのは東スラブ人
    • 東スラブ人は現在のロシア人、ウクライナ人、ベラルーシ人の先祖となる
  • 8世紀頃ヴァイキングの登場
    • ヴァイキングは自身のことをルーシと呼んだ
  • リューリクがルーシの首長になる
  • ルーシの継承方式が曖昧(兄弟相続と父子相続のmix)で衰退
    • その中でヴォロディミールは各地の制服の成功、キリスト教を国境にし聖公と呼ばれる
    • ヤロスラフはキエフ大公、内政に長けており賢公とも呼ばれる
  • キエフ・ルーシ公国はキリスト教化
    • ビザンツ文化を吸収
    • ギリシャ正教を選択したことが後世ロシアや西欧諸国・ポーランドとの断絶を生むきっかけの一つ
  • 12世紀頃から衰退の時期
    • 諸公国の連合体のような形になる
      • 代表的なのがモスクワ公国, ハーリチ・ヴォルイニ公国
    • モンゴルによる制服と「タタールのくびき」が始まる
      • 「タタールのくびき」はロシア史視点なので盛られている可能性があるらしい?
    • モスクワ公国はタタールに統治された
    • ハーリチ・ヴォルイニ公国
      • キエフ陥落後も1世紀近く存続、現在のウクライナにとっても重要
        • ウクライナはキエフ・ルーシ公国の直系と主張している根拠がこれ
      • ここからタタールはじめ各国の干渉を防ぐが、最終的にリトアニアとポーランドに並行される
  • 13世紀半ば~17世紀半ばは空白
    • リトアニアとポーランドがキエフ・ルーシ公国だったところを支配
    • モスクワ大公国、ポーランド公国、リトアニア公国と分けた
    • ウクライナという地名が生まれたのもこの時期

ウクライナの地は、古代からクリミアを通じてギリシア・ローマ(その後のイタリア)世界および海の世界とつながっているのである。この開放性は、他のスラヴ諸国の歴史が内陸的な印象を与えるのとは対照的に、ウクライナの大きな特色である。

というように、元々は同じスラブ人、ルーシ民族だったけれど衰退と外部からの制圧によって別々に統治されて思想や宗教が変わっている。

ユニエイトはギリシア正教とカトリックの折衷版であるという意味から「ギリシア・カトリック」とも呼ばれる。 (p. 86)

この後、17世紀頃まではポーランドの支配になるがそこでも宗教の衝突が続いていた。

ポーランドはカトリックで、かつプロテスタントを良い感じに抑え込んでいたけれど、支配する対象の国はギリシア正教。

ルーシの貴族たちはカトリックに鞍替えして、正教の農民を見下すなどしていた時にユニエイトという折衷案が生まれたらしい。

とても必要は発明の母的な、ウクライナにフィットしたものが生まれるべくして生まれたような感じがして面白かった。

この後コサック文化についてあったけど飛ばし読みした。

3. 近代の支配と独立

一八世紀末のポーランドの分割およびトルコの黒海北岸からの撤退によって、それ以降第一次世界大戦までの約一二〇年の間、ウクライナはその土地の約八割がロシア帝国に、残りの約二割がオーストリア帝国に支配されることとなる。 (p. 140)

コサック時代を終えると、大戦までは基本どちらかの国の属国となり農業+工業の中心地となった。

特に南東部では資本主義の勃興もあり一気にロシア帝国による工業化が始まった。

一八九七年ロシア帝国下のウクライナにおけるロシア人の人口は三〇〇万人で、その比率は一二・四%まで高まった。こうして一方では官僚、地主、知識人、芸術家、実業家などの指導階層が、他方では工場や鉱山の労働者が主としてロシア人によって占められることになった。 (p. 170)

上記の結果として、出稼ぎなどさまざまな理由でロシア人の比率が高まった。

これもロシアによるウクライナ侵攻以前から発生しているウクライナ内での紛争の理由の一つなのかなと思った。

第一次世界大戦では、ロシアは英仏側の「連合国」(または「協商国」)隣、オーストリアはドイツ側の「同盟国」となったため、同じウクライナ人が敵味方に分かれて戦わなければならなかった。 (p. 176)

メインはロシア軍だったみたいだけど、オーストリア軍にも参加していたらしい。

どちらも自分達を抑圧していた国のために戦わないといけなかったのは辛い。

結局独立が失敗したのはなぜであろうか。ウクライナ系カナダ人の史家スブテルニーは次のような要因を挙げている。 まず国内要員として、ツァーリ政府の下で民族主義が抑圧されていたことがある。 ボリジェヴィキを支持する工場労働者が一箇所に集中的に住んでいてオルグしやすいのに対し、独立を支持するはずの農民が散らばって住んでいたので組織化するのが難しかった。 西ウクライナの民族運動は他の東欧同様強かったが、ポーランドの圧倒的な力に潰されてしまった。東ウクライナではそれが一層はなはだしい。 (p. 200)

第一次世界大戦中に2月革命が起きるとロシア帝政によるツァーリ政府からの独立が行われて、ラーダという自治政府ができる。

ただツァーリも無くなったわけではなく二重政府のような形になってしまったよう。

この後10月革命が起きて、束の間のウクライナ独立国が誕生した。

しかし国内国外要因でまとまることができず、西欧諸国から見捨てられてしまった。

この流れでソ連に入り、大まかに以下のような流れになる。

  • スターリンによる粛清と大飢饉
  • 第二次世界大戦
    • ポーランドなどからの領土獲得と移民の流入
  • フルシチョフによる懐柔政策
    • クリミア半島の棚ぼた的移管
  • ゴルバチョフとソ連崩壊
    • ウクライナ独立

全体通しての感想

今回の侵攻は許されないし残念なことだというは当たり前だという前提がありつつも、ハーリチ・ヴォルイニ公国とモスクワ公国のどちらがルーシのルーツなのか、これについては少なくとも外部の日本人の自分からはどちらがどうということは言えないなと思った。

ルーシ・東スラブ人をルーツとしつつ、外部勢力に晒されやすい環境のせいでタタール、西欧諸国などの外部勢力による侵攻とそれらの文化や宗教が入り、より拍車をかけて統治を難しくしていることが分かった。

分割統治は一つの代表的な良い手法だけど、場合によっては後戻りできない負債を抱えうるなと思った。

ギリシャ正教を国教にするなど、一つの当時の選択が後世まで影響を及ぼすことが歴史にはあるなと思った。

オスマン帝国、モンゴルとヴァイキングはヨーロッパの歴史に横断的に影響を及ぼしているなと改めて感じた。